第1章 企業価値評価ガイドラインと評価の基本概念
評価実務におけるガイドラインの位置づけ
企業価値評価ガイドラインは、公認会計士協会が取りまとめた研究報告であり、企業の価値を評価する際に参照される実務上の指針とされています。
評価を行う際に必ず従うべき基準やルールという位置づけではありませんが、現時点で我が国には同様の基準書が存在しないため、実務担当者が共通の土台として活用することが期待されています。
このガイドラインは、公認会計士が株式価値を算定するにあたっての実施方法や報告書作成時の留意点を整理したものですが、評価の目的がM&Aであるか、裁判における鑑定であるかなど、前提の違いを問わず、広く適用可能な内容となっています。
策定の経緯と背景
ガイドラインの基礎となる実務整理は、1993年に初めて示された「株式等鑑定評価マニュアル」にまで遡ります。
当時は非公開株式を巡る裁判が増えつつあり、事業承継に伴う株価の対立も背景にありました。
その後、1990年代後半にはM&A取引が一般化し、DCF法などを活用した将来キャッシュフローに基づく評価手法の実務への導入が進みました。
この流れを受けて、従来のマニュアルでは対応が難しくなったことから、2007年にガイドラインが公表されています。
内容としては、事業承継、資本政策、裁判、企業再編など、さまざまな局面で活用されることを前提に構成されています。
2013年改正とその背景
ガイドラインは2013年に一部改正されています。
その契機となったのは、評価報告書が不正な企業取引の根拠資料として用いられた事例でした。
この事件では、実態に乏しい会社が極端に高い事業計画を根拠に算定された価値に基づいて買収されており、結果として株主や債権者に影響を及ぼしたとされています。
このような状況を踏まえて、改正では以下のような観点から内容の見直しが行われました。
- 評価業務の性格に関する明確化
- 提供情報の有用性に関する検討の必要性の強調
- 倫理的配慮を踏まえた業務遂行上の注意喚起
これらの修正により、算定人には単なる技術的作業者ではなく、専門的判断を求められる立場であるという意識がより強く求められるようになりました。
算定業務の性格と留意点
評価業務は、保証業務とも合意された手続業務とも異なる性質を持ちます。
算定人自身が算定内容に責任を持ち、数値の背景となる前提条件や入力情報についても、自らの判断で適否を見極める必要があります。
したがって、提供された情報がそのまま使えるとは限らず、不合理と認められる場合には、訂正や再確認を求める必要があります。
たとえば、売上が急増する計画が示された場合には、その前提や裏付けを確認することが期待されます。
さらに、算定人は自らが作成した結果について、第三者から批判的な検討を受ける可能性があることを常に念頭に置くべきです。
このような視点を持つことで、恣意的な評価や過信に基づく誤算定を回避できると考えられます。
評価に用いる情報の検討と分析
情報の取り扱いについては、「真実性や正確性の検証を前提としない」という基本スタンスのもとに、「有用性」の観点から採否を判断することが求められます。
つまり、評価に資するかどうかを中心に据えて、入手した情報の整理・分析を行う必要があります。
専門家としての注意義務の一環として、過去の財務推移と整合しない計画が示された場合には、説明を求める、あるいは調整を依頼する姿勢が期待されます。
情報の性質によっては、評価業務を引き受けない、または途中で契約を打ち切るといった対応が適切とされるケースも想定されます。
国際的な動向と評価実務の将来
企業評価に関する国際的な基準を定めているのが、国際評価基準審議会 (IVSC) です。
この組織は、評価に携わる各国の専門職団体と連携し、評価の品質向上と国際的な整合性の確保を目的として活動しています。
米国などでは、すでに職業資格制度が整備されており、評価実務の専門性が高い水準で保たれているようです。
今後、日本においても、類似の資格や制度が必要とされる可能性もあるかもしれません。
IVSCでは、有形資産・事業・金融商品といった評価対象ごとに専門委員会が設けられており、それぞれに応じた評価の枠組みが検討されています。
この章のまとめ
企業価値評価ガイドラインは、算定人の判断と責任を明確にする一方で、実務における迷いどころに一定の方向性を示す存在でもあります。
形式にとらわれすぎず、情報の有用性や倫理的側面を意識した対応が、結果として評価業務の信頼性を高めると考えられます。
次章では、「価値とは何か」という基本概念を起点に、企業価値の構造について整理していきます。評価そのものの理解を深める上での基礎になる部分ですので、あわせてご確認ください。
第2章 価値と価格/事業価値・企業価値・株主価値

「価値」と「価格」は同じものではない
企業評価を行う場面では、「価値」と「価格」が混同されることがありますが、両者は本来異なる概念です。価格とは、売り手と買い手が交渉によって合意した取引金額を指します。これは、実際の取引において成立した金額であり、当事者の事情や取引時点の環境に左右されやすい性質を持ちます。 一方で、価値という言葉は、特定の前提条件の下で、経済的便益をどのように見積もるかという理論的な算定を意味します。つまり、価値は取引が行われる前段階での計算上の結果であり、前提や目的が異なればその数値も変わり得ます。 このため、同じ企業であっても、評価の目的や視点の違いにより複数の価値が存在するという状況は珍しくありません。このような状況は「一物多価」と表現されることもあります。
一物多価が生じる理由は何か
評価結果に差異が生じる主な背景として、評価目的、当事者の立場、経営支配権の有無などが挙げられます。以下に典型的な例をいくつか整理してみます。
評価目的の違い
たとえば、成長資金の調達を目的とした株式発行と、事業の整理・清算を想定した売却では、価値の前提が大きく異なります。
前者は将来の収益力を前提とする評価が行われますが、後者では保有資産の売却可能額に着目する考え方が優先されます。
立場の違い
同じ企業でも、買い手と売り手では見積もる数値が異なる可能性があります。
買い手は将来の収益見込みを慎重に見積もる一方で、売り手はその逆に楽観的な仮定を置く傾向があるかもしれません。
経営権の有無
経営に関与する株式と、単なる配当の享受を目的とする株式とでは、期待される権利内容が異なります。
経営権を得ることができる場合には、一定の上乗せ(いわゆるコントロール・プレミアム)を考慮するケースも見受けられます。
このように、価値の評価は一つの正解を求めるものではなく、前提条件の整理と合意形成のプロセスが不可欠となります。
三つの価値の区別
企業価値を論じる際には、以下の三つの区分を整理することが重要です。
事業価値
事業価値とは、企業が継続的に展開している本業から生じるキャッシュフローの現在価値を指します。
評価手法としては、将来のキャッシュフローをもとにする方法や、同業他社との比較による方法などが用いられることがあります。
企業価値
企業価値とは、事業価値に加えて、非事業資産の価値を含んだ総合的な企業全体の価値です。
非事業資産には、遊休不動産や運用目的で保有している資産、余剰資金などが含まれる場合があります。
これらは本業に直接関係しないため、 評価の際には分離して扱われることもあります。
株主価値
株主価値は、企業価値から有利子負債などの他人資本を差し引いた後、残余として株主に帰属する価値です。
株式の評価においては、この株主価値をベースに、1株あたりの価値を求める手法が取られることが一般的です。
価値を左右する多面的な要因
価値評価においては、個別企業の状況のみならず、外部環境や関係者の構成といった要素も大きな影響を与える場合があります。
ガイドラインでは、以下のような要因が整理されています。
- マクロ的要因:社会情勢、景気動向、法規制の変化など
- 業界要因:業界全体のライフサイクル、構造変化、競合他社の動向
- 企業要因:収益力、財務内容、経営戦略、ライフステージなど
- 株主要因:株主構成、種類株式の有無、議決権の集中度合いなど
- 目的要因:評価の目的が取引・裁判・税務・会計などどの場面にあるか
これらの要因は、フリーキャッシュフローの見積もりに影響を与えるものや、ディスカウントやプレミアムの適用判断に関わるものなど、さまざまな局面で評価結果に変化を及ぼします。
実務上の注意点
実務においては、評価に用いる手法や前提条件を明確に文書化し、関係者と認識を共有することが重要になります。
価値算定そのものよりも、その説明責任が重視される場面も少なくありません。
また、異なる前提で複数の評価結果が導かれる場合でも、相手方との交渉や合意形成に資するような資料構成が求められます。
本章のまとめ
本章では、価値と価格の違い、三つの価値の構造、そして価値形成の要因について整理しました。
評価業務を実施するうえでは、数字だけでなく、その背後にある前提や前提条件の妥当性にも注意を払う必要があります。
次章では、これらの概念が実際にどのような場面で活用されているのか、評価の目的別に見ていきます。
第3章 企業価値評価が必要となる場面と評価前提
評価が求められる実務の背景
企業価値の評価は、特定の局面において必要とされることがあります。
評価を行う目的はさまざまですが、実務上は主に次の3つに分類されることが一般的です。
1つ目は「取引目的」です。
たとえば、株式の譲渡、新株の発行、あるいは企業再編など、資本構成に変更を伴う局面では、公正な価格の基準として評価が用いられることがあります。
2つ目は「裁判目的」です。
株式の買取価格や価格決定申立てにおいて、裁判所が適正な価値を判断するための資料として評価報告書が提出されることがあります。
3つ目は「その他の目的」として、税務上の評価や自己株式の処分、会計上の無形資産評価などが挙げられます。
評価の目的に応じて、選択されるアプローチや手法が異なる点は、実務上の注意点と言えます。
継続と清算、それぞれの前提
企業価値をどのように見積もるかは、その前提に大きく依存します。
継続企業を前提とする場合には、将来の事業活動によって生み出されるキャッシュフローを中心に評価を行います。
一方で、事業の継続が困難と判断されるような場面では、清算前提での評価が必要になることもあります。
この場合、保有資産の換価可能性や負債の返済可能性、さらには清算に伴う費用まで含めて、実質的な残余価値を見積もる必要が出てきます。
また、継続前提が完全に否定されていないケースでも、インカム・アプローチと純資産法を併用するなど、複数の手法を組み合わせた対応が求められる場合もあります。
議決権割合と価値評価の関係
株主が保有する議決権の割合や、株式の内容も、評価に影響を及ぼすことがあります。
たとえば、大量保有の場合には経営に対する支配力を含むこともある一方で、少数株主が保有する場合には、配当を受け取る権利などが価値の判断基準となる場合も見られます。
種類株式のように、議決権や優先配当の有無などが異なる場合には、それぞれの権利内容を踏まえて、株主に帰属する価値を適切に算定する必要があると考えられます。
シナジー効果の整理と留意点
企業の統合や事業の再編を検討する際に、しばしば注目されるのがシナジー効果です。
これは、複数の事業が統合されることによって、単独のときよりも高い価値を創出できると期待される要素です。
シナジーにはいくつかの類型があります。
たとえば、販売チャネルの統合によって売上が拡大する「売上シナジー」、コスト削減により利益率が向上する「コストシナジー」、研究開発機能の強化などが挙げられます。
また、財務面では資金調達コストが低下するような効果が生じることもあるかもしれません。
これらの効果は、フリー・キャッシュ・フローの増加や割引率の低下を通じて企業価値に影響を与える可能性がありますが、効果の実現可能性や持続性については、個別の状況に応じた慎重な検討が求められます。
この章のまとめ
企業価値評価は、取引、裁判、税務といった実務のさまざまな場面で必要とされます。
その際には、継続か清算かという評価前提の違い、議決権割合や株式の性質といった株主の立場、さらには統合によって生まれる可能性のあるシナジー効果など、多くの要因を総合的に考慮する必要があります。
評価は単に数値を出す作業ではなく、前提条件や背景を踏まえて、納得感のある結論を導き出すプロセスであるとも言えるでしょう。
免責事項
本記事は、企業価値評価に関する一般的な情報の提供を目的としたものであり、個別の評価案件における判断や実務対応を保証するものではありません。
具体的な評価手法の選定、計算、文書化にあたっては、対象企業の状況や評価目的に応じた専門的な検討が必要となります。
実務にあたっては、必ず適切な専門家への相談を行ってください。
コメント